対話会の体験。と、自己流の考察(2)

雪森入り口

前回の投稿で、対話会での体験をつらつらと書きました。
対話していると自(おの)ずと必要なことが降りてくる、ちょっと不思議な感覚を。
そして今回は、それをもたらす源は何か…?について感覚的に考察を書いてみました。(ロジカルぶって感覚的すぎるのがこっぱずかしいけど> <)

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その源になっていると感じることを3つ挙げてみた。

(1)対話会の場が緩んだ状態であること。

緩んだ状態、というのは例えば、よく”発想力が高まるときの状態”として例に出る「大事なことはお風呂の中や、トイレの中、ジョギングをしている時にふと降りてくるんです」というアレが起きる心の状態と近いように感じる。
つまり、ロジカルに思考しているのではなく、感覚開いて緩んでいる時や、何かに夢中になっている時の状態。

対話会は、ゆったりとした時間で、そこで何をしててもいい、何を出してもいい、どうあってもいい、自由な場。そのためか、枠組みにハマる必要がない、何かである必要はない、ただ自分でいること、という許可がある(ように感じる)。

その許可ゆえに、緩み、枠組みを外し、“降りてくるものを受け取れる無意識の状態がスタンバイになっている”のではないかと思う。

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(2)一人ではない、ということ。

対話会では、自分が自分でいること、なんでもとりあえず出す、ということを大事にしている。そのため、それぞれが(1)のような心の状態で緩み、深く自分の内側にもぐり、何かが心に立ち現われると、「とりあえず出す」ため、それ(内側から立ち現われること)が場に出される。

その誰かから出てきたものが引き金となりまた他の人の内側にいろんな作用を起こす。 お互いの相互作用が起きる。そこに、自分の枠組みを超えた気づきや兆しがある。こうして、”一人でいる時にふと降りてくる発想”とはまた違う、複数の人たちが内側を共有することの作用が自分の枠を超えた気づきをもたらしてくれる。

それは本人にとって都合のいいこともあれば、都合が悪いときもある。ただ、いずれにしても、いまの自分にとって必要な何か(啓示のような…?)だと私は感じている。そして、ともすると、自分にとって都合が悪い何かである方が、本当の意味で、その時に必要な兆しであることの場合が往々にして高い(当社(私)比)。

”誰か”と対話するから、枠を越える。

(3)とりあえず出す、という無責任さ。

そして、とりあえず出す、という時に大事にしていることが「真ん中に出す」「感情を出す」「それを拾っても拾わなくてもいい」ということ。

特にこの3つ目が無責任に出していいという許可をくれている感じがするからか、さらには、ちゃんとしたこと言わなくてもいいような気がするからか、普通は出さないような内側、あるいは、氷山の下にある何かが「場」に出てくる。

誰かに向けて言いたいことを言うのではなくて、自分の中で起きていることをただ、真ん中に出す。たとえそれが誰かに対して言いたいことだったとしても、その反応を自分のこととして場に出す。

相互作用、創発が生まれるきっかけが、その「いい意味での無責任さ」にあると思う。また、無責任に出せるからこそ、自分のあり様を外から捉えることができるチャンスが増しているのだろう。

これは、(2)で挙げた「誰かと対話をする」ことによって起きる気づきや枠組みに気づく、といった効能(?)の「幅と深さ」を大幅に広げるスパイスになっている。

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対話会の不思議な空間と体験は、こうした大事にしていることをみんなで大事にするから生まれるのかなと書いてみて改めて感じた。

この対話会はよく、温泉に一緒に浸かったみたいな感覚、という表現をされる。それは、緩んで、安心して出せて、つながりを感じられる、ということなのだろう。(と私は解釈している)。

このことに、大切なことが包含されているように思う。

だからこそ、自(おの)ずから自分自身であることを取り戻せる、そして、その時必要な何かを受け取れる、優しい場になっているのかもしれない。